研究者をめざす若い人へ
吉村教授のJAK発見しそこないの物語
偶然は準備された精神にしか微笑まない (ルイ パスツール)。
近年大学院重点化に伴って大学院生の数は飛躍的に増えたが、進学さえすれば、あるいはよいラボにいれば自動的に優れた研究者になれると勘違いしている人も多い。現実はもっと厳しくて努力と競争の世界である。でも実際にはどうしたらよいかわからない。そこで私の体験から何かを学び取ってもらえればと考えて、また昔話を披露しよう。ひとの苦労話と自慢話ほど退屈なものはないそうだが。。。
留学
1989年10月1日、私は成田からワシントンに向かう全日空便に乗り込んだ。MITのWhitehead研究所に留学するためだ。そのときもうすぐ31歳になろうとしていた。私の留学先選びは少し変わっている。通常ならば教授の紹介とか学会で知り合ってとか、なにかしらつてがあるものだろうが、これからボスとなるHarvey
Lodish先生とは手紙以外では全く面識もなく、私が日本人留学生としては初めてで、どんな人間かを知る人は周囲に皆無だった。何故かインタビューもなく、履歴書だけで来てよいというので、いきなり初対面のひとに指導を仰ぐことになった。今思えばなんと無謀なことを、と思うが当時はともかく若かったのだろう。そのラボからトップジャーナルにたくさん論文が出ているのだから自分も出すぞ、という意気込み(というより野心と言ったほうが正確かもしれない)だけで一杯で不思議と不安を感じなかった。
私は1985年に京都大学理学研究科の生物物理学教室で学位を得た。もともと細胞が細胞膜を介して情報のやりとりをする分子機構に興味があった。当時はようやくEGF受容体などの一次構造が決定され、特に蛋白質性ホルモンが受容体に結合した後に情報がどうめぐりめぐって核に伝わるのか、今こそそのブラックボックスが開かれる時だという盛り上がりを見せ始めた頃であった。そこで私は大学院を細胞膜の研究をしている大西俊一先生の研究室を選んだ。京大生物物理と言えば柳田充弘先生や竹市雅俊先生(現理研)などが有名でご存知のかたも多いだろうが、私の選んだ教室はそれらと比べるとおそらくかなり地味だった。もっとも私の成績では望んでもそれらの人気教室は無理だったろうが。幸い卒業後すぐに大分医科大学で助手になりそののち鹿児島大学医学部で助教授になった。当時は今のようなポスドク制度は日本になく、大西先生の教室にも学位をとっても就職先のない、いわゆるオーバードクターがごろごろしていた。大西先生はPhDが医学系に行っても先はどうだろうかと心配されたが、ともかくもとりあえず食べてくための職が欲しかった。幸いにも行った先の大分医科大学の桑野教授、鹿児島大学の秋山教授が理解ある方達で比較的早く留学できる道を開いてくださった。
しかし今から思えば、私は当時は実に曲がった考えを持っていた。地方から独立したPIになる道は険しい。競争的資金重視の世の中になって地方大学の医学部の基礎分野の多くが今危機感をもっておられると聞く。しかし20年前は地方と中央の格差はもっと大きかったのではないだろうか。研究資金はとても潤沢とは言えない。今と違ってネットもなく情報もひどく遅く感じられた。雑誌は船便なので欧米の研究者よりも3ヶ月遅れて手にするというのが普通のことだった。地方から研究で芽を出しPIになるためにはどうしてもNature,Cellのようなトップジャーナルに出して名を売らなければという考えに支配されていた。そしてそれには留学しかないと思っていた。トップラボにいけばそれがかなうと信じていた。有名ラボに手紙を書きまくってようやくひとつLodish先生からよい返事をもらったのだった。ずいぶん不純な動機だったが、それはそれで上昇をめざす原動力になっていたと思う。いやそれくらいしなければ基礎研究分野で地方から発信することは難しい時代だったと思う。また若い時はそれくらいの不遜さは許されてもいいだろう。現代はむしろそのような上昇志向が強い若者に出あうことが少なく少し寂しい気がする。
当時の写真Whitehead研究所にて
サイトカイン受容体のシグナル分子
さてLodish教授に会ってから1年後にNatureに論文(1)を発表するまでの経緯は昔話の ボストン留学の思いでを読んでいただきたい。私は当時クローニングされたばかりのエリスロポエチン受容体をテーマに選んで偶然にも活性化型変異を発見しある程度の評価を得た。次はどうしてもエリスロポエチン受容体のシグナルを伝える本体,すなわちシグナル変換分子を探し当てたかった。それこそが受容体から核へのシグナルのブラックボックスを開く鍵であり、当時誰もが探し求めていた。エリスロポエチンを含めたサイトカイン、そしてその受容体のクローニングが終わり多くの研究者がシグナル伝達機構の解明に乗り出していたのだった。当然競争も激しかったがいまだ正解にたどり着いた者はいなかった。1990年前後で数多くの論文が発表された。その多くはsrc型チロシンキナーゼがサイトカイン受容体に会合してシグナルを伝えるというものだった。確かにエリスロポエチンの刺激で受容体のリン酸化フォームは増加した。しかしv-srcを強制発現させてもエリスロポエチンの代わりはできなかった。りん酸化は関係しているだろうがsrcではない何かがあるだろうと私は信じた。もし本当のシグナル変換分子を見つけることができたならば確実に教科書に載るきわめて重要な発見である。
pp130の発見
私は正攻法で攻めることにした。つまり受容体を精製してそこに会合するキナーゼを同定するという全くオーソドックスな方法である。だが問題がいくつかあった。ひとつは細胞表面の受容体数が極めて少ないこと(1000個/細胞程度)、エリスロポエチン受容体の場合は特異的なモノクローナル抗体がないこと、シグナル変換酵素を含む複合体を可溶化する条件が不明なことであった。そこで細胞表面の受容体を効率よく濃縮するためにビオチン化したエリスロポエチンを用いることにした。ビオチン化もアビジンカラムによる受容体の濃縮も非常にうまくいった。しかしTritonX-100で可溶化して32P-ATPを加えても受容体がリン酸化される気配がなかった。これはリン酸化酵素が可溶化によってはずれるためと考えて膜透過性のクロスリンカーで処理し複合体を架橋してから可溶化してりん酸化反応を行った。この架橋剤はSS結合を有しており還元剤によって切断されてSDS-PAGEすれば本来の単量体にもどる。そのまま電気泳動すると多くの非特異バンドの中に受容体と思われる特異的なバンドが見られた。しかしまだ非特異的な反応物も多くチロシンリン酸化かどうかはわからない。このリン酸化産物をSDS中で分離し抗ホスホチロシン抗体で免疫沈降したところ、72と130キロダルトンの2つのバンドが明瞭に確認された。それ以外のバンドは全くなくLodish教授はbeautiful!と言って賞賛してくれた(図参照)。
受容体抗体による再沈降実験から72キロダルトンの分子はエリスロポエチン受容体そのものであることを確認した。130キロのほうは未知の分子だが糖鎖付加はなく細胞内分子のようだった。私はこれをpp130と名付けてエリスロポエチン受容体に会合するチロシンキナーゼもしくはその基質であるとした(2)。pp130はエリスロポエチン受容体だけでなくIL-3受容体でも検出されたことからサイトカイン受容体に共通するシグナル分子であろうと推察した。これまで誰も検出したことのないサイトカイン受容体に会合する分子をはっきりと目に見える形で提示できたことは大きな前進だったと思う。しかし感度がものすごく悪くて実験ごとのばらつきも大きかった。32Pの半減期2週間を待ってはじめて検出できるバンドであった。あまりに32Pを使うのでベンチの前のJuliaというポスドク仲間は防護たてを私に向けてあからさまに不快感を示した。それでも確実に検出はできたのでpp130が会合することに自信はあった。この当時は抗ホスフォチロチン抗体がよくなくて、使っていた1G2というモノクローナル抗体はカタログにはWestern-blotting可と書いてあったのに全く使用に耐えなかった。これで数ヶ月を棒に振ったのだった。この仕事はアメリカを去る半年以上前つまり1991年夏にはすでに完成していた。Lodish教授はボストンでの秋のNature主催のカンファレンスで得意げに発表してくれた。しかし論文はなかなか通らずにEMBO-Jに蹴られてそこで帰国となった。後にこの論文は帰国後MCBに掲載された(2)。1992年2月号である。
pp130とJAK2
私は1991年12月に帰国した。これが一生悔いる決断だった。なぜ残ってpp130に賭けようとしなかったのだろう。帰国しなければ日本での助教授職をあきらめないといけないという非常に難しい選択だった。留学後1年でNatureに論文を出しために挑戦する気持ちが薄らいでいたことは否めない。pp130が新しいチロシンキナーゼであったとしてもそれを同定することはかなり困難のように思えたし、本当にシグナル伝達分子であると断言できる証拠がなかった。さらにsrc型チロシンキナーゼであるとする論文がかなりの数、top
journalに掲載されており、本当のところpp130を信じてくるひとは少数だったのだろう。またこの検出法は実に工程が複雑で感度も悪く、もしかしたら私だけしか実験を再現できないのではないかと本気で思っていた。当然かもしれないが帰国前に書いた科研費はひとつも通らずに帰ったとたんに途方にくれることになった。
しかし帰国後もう一度pp130を同定しようという気持ちになっていた。陳腐な方法であったがエリスロポエチンに応答する赤芽球株細胞で発現するチロシンキナーゼをdegeneratedオリゴを用いたPCR法によって網羅的に検索した。その結果JAK2として報告されていた機能不明のチロシンキナーゼが大量に発現していることがわかった。その分子量は130キロダルトンだった。もしかしたらという思いがあった。さらに同年Cellの6月号にG.Starkらの歴史的な論文が発表された(3)。130キロダルトンのtyk2がインターフェロン受容体のシグナル変換酵素であることが報告された。これは体細胞遺伝学を駆使した画期的で見事な論文だった。その美しさに何度も読み返した。さらに衝撃的だったのは同じ号にインターフェロンのシグナルを伝える転写因子の精製クローニングの報告が掲載されたのだった。それはSH2ドメインをもつ転写因子STAT1/2であった(4)。インターフェロンのシグナルは受容体-Tyk2-STATと大枠が解明された。
この論文をみて私はpp130はJAK2に違いないとさらに確信した。JAK2はtyk2の相同性分子だったからだ。しかし研究費が全くない。長田重一先生に泣きついて研究班に入れてもらって150万円を分けていただいた。さっそく抗体を作ろうとした。当時MAP法というペプチドをオリゴマーにして免疫するという方法が宣伝されていた。今では誰も使わない方法である。キャリアータンパクにペプチドを結合しなくてよいので手間が省けて安価で早いという。それまでペプチドは全部自分でキャリアにつないでウサギに免疫していたのだが、安さと簡便さに負けてついMAP法でペプチドを合成してしまった。その結果3ヶ月たっても抗体はできなかった。免疫学の基礎知識があればMAP法がうまくいくはずはないことはすぐにわかっただろうに。
当然pp130がJAK2だろうと思ったのは私だけではなかった。あの時抗体ができていたとしても私はすでに負けていたかもしれない。1993年6月号のCellにIhleらのグループによって、JAK2がエリスロポエチン受容体や成長ホルモンに会合することが報告された(5,6)。後年Ihleのラボを訪れた時にIhleは私のことをサイトカイン受容体に130キロダルトンの分子、おそらくJAK2が会合していることを世界ではじめて報告した男、と持ち上げてくれたがすでにあとの祭り。今ではpp130のことはLodish先生ですら覚えていない。その後JAK-STATの研究はまさに秒刻みで爆発的に進行していき、JAKは4つ、STATは6種類ありそれぞれの機能も次々と解明され1995年にはほぼおおまかなスキームが解明されている(図参照)。
その激しい流れに徒手空拳の私はもはや追いつくことも参入すらもできなかった。1993年夏に意を決してSTATの標的分子を探す旅に出た。そしてJAK/STAT経路の負の制御因子CIS/SOCSファミリーを発見することになるのだが、その経緯は
DNAX研修の思い出や 駆け抜けた5年半(前編)を参照願いたい。CIS/SOCSの発見で少しは失地を挽回できたのかもしれない。だが逃がした魚ほど大きく思えるのは釣りだけではない。pp130、惜しかったなあと悔やむ。
歴史にもし……だったらといっても意味が無いことはよくわかる。しかしついもし帰国しないであと1年Lodish先生のラボに残っていたら、と思わずにはいられない。当時のアメリカの情報量の多さ、研究費の潤沢さ、MITはCell誌と特別なパイプがあったことを思えば勝てないまでも負けはしなかっただろう。抗体さえちゃんと作れたら必ずpp130を免疫沈降できただろう。Ihleと並んでサイトカイン受容体のシグナル分子を発見した研究者として教科書に名を残せたかもしれない。なぜ必死になれなかったのか?研究費がなかったというのは確かにそうだが言い訳にはならない。抗体が駄目ならcDNAをとればよかったはずだ。
思い返すと本当のところは他のものをすべて捨てて挑戦する気持ちが足りなかったのだろう。当時はまだインターフェロンと一般のサイトカインのシグナル伝達機構が同じという考えはなじみが薄く、確信はあったが他の実験をすべて止めてこれだけに集中する勇気がなかった。酒井邦嘉氏は“科学者という仕事”(中央公論)で
分かるか分からないかの状況が一番苦しい
と述べている。そこに存在することが分かってしまえばそれを証明することは比較的やさしい。事実その後JAKは界面活性剤と抗ホスフォチロシン抗体を変えることで容易に検出されるようになった。先頭に立つ者の苦しさはそこにあり、だからこそ一番乗りが賞賛される。しかし日和って帰国という安定した道を選び、抗体作製も手抜きの道を選んでしまった私にはサイエンスの女神は微笑まなかったのも当然かもしれない。
若い研究者のタマゴたちへ
私はこの経験からよほどの秀才でない限りひとりの研究者が本当の大発見に巡り会う機会は一生のうちに1度か2度しかないのではないかと思うようになった。しかも20-30代の若いうちである(ということはすでに私は終わっている?)。若いひとたちは常勤的な研究ポストが減り大変だろうが、なんとか情熱を失わず研究できる環境に居続けることが重要ではないだろか。するといつかは大きなチャンスが巡ってくるだろう。ただパスツールの言葉どおりそのチャンスは多くは偶然やってくる。しかし多くの人は気がつかないか、気がついたとしても私のようにニアミスで終わってしまう。だから本当にチャンスが来た時は躊躇してはいけない。そこにすべてを賭けて必ずものにするという意気込みが必要なのだろう。それはもう論理を越えた世界である。酒井氏はまた、
と述べている。つまり解答がわからないから迷いかつ本当にこれが正しい方向だろうかと悩む。しかし実はその時はすでにかなり正解に近い時なのだ。あと一歩を乗り越え飛躍するためにはリスクを覚悟した挑戦が必要なのだ。
もちろん全員が挑戦して栄冠を得るわけではない。科学者は、挑戦に失敗して歴史の中に露と消えてもなお科学に殉ずる気持ちが持てるかを常に試されているような気がする。
チャンスをつかむ方法
ではごく普通の凡人がブレークスルーとなるチャンスをつかむにはどうしたらよいだろうか?それは次回のお楽しみに。
文献
(1) Yoshimura A, Longmore G, Lodish HF.
Point mutation in the exoplasmic domain of the erythropoietin receptor
resulting in hormone-independent activation and tumorigenicity.
Nature. 1990 Dec 13;348(6302):647-9.
(2) Yoshimura A, Lodish HF.
In vitro phosphorylation of the erythropoietin receptor and an
associated protein, pp130.
Mol Cell Biol. 1992 Feb;12(2):706-15.
(3) Velazquez L, Fellous M, Stark GR, Pellegrini S. A protein tyrosine
kinase in the interferon alpha/beta signaling pathway.
Cell. 1992 Jul 24;70(2):313-22.
(4) Fu XY. A transcription factor with SH2 and SH3 domains is directly
activated by an interferon alpha-induced cytoplasmic protein tyrosine
kinase(s).
Cell. 1992 Jul 24;70(2):323-35.
(5)Argetsinger LS, Campbell GS, Yang X, Witthuhn BA, Silvennoinen O,
Ihle JN, Carter-Su C. Identification of JAK2 as a growth hormone
receptor-associated tyrosine kinase.
Cell. 1993 Jul 30;74(2):237-44.
(6) Witthuhn BA, Quelle FW, Silvennoinen O, Yi T, Tang B, Miura O, Ihle
JN. JAK2 associates with the erythropoietin receptor and is tyrosine
phosphorylated and activated following stimulation with
erythropoietin.
Cell. 1993 Jul 30;74(2):227-36.