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山科教授の思いで

by yoshimura1212 last modified 2007-04-28 19:22

修士学生の頃お世話になった山科先生(北里大学)のこと。

25年前山科先生との出会い

私がはじめて山科先生にお会いしたのは京都大学解剖学教室で、まだ先生が助教授をされていたころである。私は大学院修士課程の1年生で25年前のことだ。伝統ある(要するに古くて壊れそうな)建物で天井が高く、今ではとうてい考えられない暗い部屋であったことを記憶している。そこで先生は唾液腺細胞の分泌顆粒の開口放出の電顕写真をみせて、例によってとつとつとした語り口で私にご自身の研究を紹介してくださった。まだ研究をはじめて間もないころで、光学顕微鏡でしか細胞を観察したことのなかった私はミクロの生物現象をまさに見て来たかのように解明できる電顕というものに強い衝撃を受けた。

 私は1981年に京都大学理学部の大西俊一教授の教室に入学しインフルエンザウイルスの細胞内侵入機構の研究をはじめることになった。ウイルスが細胞膜ではなく、エンドサイトーシスされてエンドソーム膜と融合する瞬間を捉えたかった。大西先生がどうやって山科先生と知り合ったのかは定かでないが、サンプルを作って山科先生に見てもらえ、と言われるので持参したのだった。山科先生は40歳くらいだったのだろう。とても大きな体格と大きなやさしい目が強く印象に残った。先生の温和な人柄と美しい電顕写真に惚れ込んでぜひ教えを乞いたいと思った。電顕ではウイルスが取り込まれるところは見れたが、膜同士の融合の図はとれなかったこともあって、よい像を得るためにぜひ山科先生について電顕を習いたいと大西先生に申し出たのだった。

 同年7月山科先生は北里大学に教授として赴任されることになっていた。私は大西先生に頼み込んで翌年相模原まで派遣してもらった。修士2年生の初春の頃だった。半年くらいの予定で大学近くにアパートを借りて住み込みバイクやバスで通った。透過電顕だけでなく走査電顕、フリーズフラクチャー、さらに山科先生の得意な組織化学染色法も教わった。組織化学染色は、すりつぶす生化学しか知らなかった私には目からうろこの技術であった。先生はひととおりすべての技術が学べるように実習のプログラムを組んでくださった。当時の電顕センターの宮25年前澤さん、古川さん、根本さんにはいろいろとご迷惑をおかけし、また大変お世話になった。助手の玉木さん、技官の勝又君ともよく遊んだのも楽しい思い出である。勝又君とは新宿あたりをよく徘徊した。

 山科先生はいつも飄々とされていた。赴任されて間もない頃で、実習もあってラボつくりは大変ではなかったかと想像するが、そんなところは全く感じられず、昼食時にはよく冗談を言われて皆をなごませてくれた。先生の熱心なご指導もあって習得は順調にいくかに思えた。はじめて自分で肝臓を固定して切片を切り観察した時の感激はいまでも思い出すことができる。しかし次第に私は身体の異変に気がついた。肩の筋肉が痛くて堅くなっている。これが生まれてはじめての肩こりだった。当時はガラス板に微妙な筋を入れ、割ってナイフを作っていた。その後ミクロトームから出てくるゴミとしか思えないようなサンプルをグリットですくって観察するのだった。ナイフの作製もサンプルの調整も細心の注意がいる。根が大雑把で不器用な私にはつらい作業だった。自分には向いてないのかもしれないと密かに思った。予定を早めて4ヶ月くらいで研修を終えて京都に戻ったのだが、その後設備もないこともあって自分で切片を切ることはなかった。

 山科先生にはその後も何度か学会等でお会いする機会があった。その度に食事に連れて行って下さったり、就職の心配までしてもらった。当時は大学院を出てもオーバードクターで就職先がない連中も多かったのだ。結局解剖や電顕ではなく生化学を選ぶことになったのだが、私はこんなやさしく親身になってくれた先生を知らない。その後私は鹿児島、久留米、福岡と九州内を転々とすることになった。卒業後は生化学や分子生物学の分野にのめり込んだために、山科先生と直接お会いする機会もなく20年近くが過ぎた。時は流れて今度は私が学生を指導する立場になった。あの時の京大の薄暗い教室でお会いした先生のように、学生に“この人のもとで学びたい”と思わせることができているだろうか?
本当に久しぶりに退官記念パーティーで先生にお会いするのを楽しみにしている。

後日談)

4/14に東京都内で講演会で話したあと、先生の退官記念パーティにかけつけた。講演会が長引いて私が着いた時はもう会も終わりかけの頃だった。宮澤さん、古川さんらとも会えたが、残念ながらほんのひとことふたこと話しただけだった。しかし根本さんはあいかわらずおきれいなのに驚いた。助教授の酒井先生、玉木さん、勝俣君とも話しができた。みなそれぞれ当たり前だが年を取り恰幅がよくなっていた。思った以上にかわらないのが山科先生で元気一杯の様子だった。ウィンドサーフィン部の顧問をされているとかで最後は胴上げされていた。ちょっとうらやましい気がした。自分もいつかはこんなふうに退官記念パーティができるのだろうか。。。そんなことを考え妙にしんみりとした。

やはり研究も人生もひととの出会いで決まるもの。自分だけで切り開いたつもりでも振り返ってみると多くのひとびとと出会い、いろいろなものを吸収し、かつお世話になってはじめて成長できるものだと思う。私は修士にもかかわらず他所の教室に飛び込んで好き勝手をさせてもらった。大西教授の懐の深さに感謝しなければいけないと今になって思う。

山科教授との写真や昔の写真はこちらへ。

山科先生と

20代−1