3たびの引っ越し
内藤時報原稿
以下内藤記念科学振興財団の時報へ寄稿した文章
3たびの引っ越し
慶應大学医学部微生物免疫学教室 吉村昭彦
平成20年4月、7年間の九州大学生体防御医学研究所での研究生活に一応の終止符を打ち(半分はまだ残っているが)東京新宿の慶應大学医学部に異動した。ラボの引っ越しは3度目である。偶然だがその度に私自身もしくはスタッフが内藤記念財団の助成金をいただいた。鹿児島大学から久留米大学に異動する際、また久留米大学から九州大学、九州大学から慶応大学に異動する際、節目節目で内藤記念財団からの助成金は言葉に尽くせぬほどの援護となった。通常の科研費などと違って民間助成金は使い勝手が非常によいためである。
私は12年前に鹿児島大学医学部助教授から久留米大学分子生命科学研究所に教授として赴任した。まだ37歳の若造だった。このときは段ボール数箱のみ抱えて一人で乗り込んだ。何にでも後先考えずに挑戦できるというのは若さの特権かもしれない。人も金もないという状況に対する不安よりも独立できるという喜びのほうがはるかに大きかった。しかし7年前に久留米大学から九州大学(福岡市)に移動したときは10数名の大学院生と研究員を抱えておりいろいろな不安材料は多かった。所帯が大きい分ラボの引っ越しは苦難の連続だった。人的な保証もほとんどなかった。何より九大のラボの壁を取り壊す工事や内装工事には陣頭指揮が必要で手間と金がかかった。九大から支給される準備金ではとうていまかなえず実験台や機器の購入に多額の借金を負うことになった。何度もやっぱり移るのは止めようと思ったこともあった。内藤財団をはじめてする多くの財団のご支援がなければ引っ越しはできなかっただろう。幸い久留米と福岡は車で1時間とかからない距離。事前の打ち合わせも頻繁に行い異動後一週間でほとんど全く停滞なく研究は継続できた。自分の研究費で買ったすべての試薬を持っていったために、後任の先生には“塩化ナトリウムすら残っていない”とあきれられた。佐賀の人間は“がばい!”と言われるが一方その几帳面さゆえに“佐賀んもんが歩いた後はぺんぺん草も生えない”と揶揄される。私もそう言われていたに違いないが、事情が事情なのでしかたがない。
今回の九州大学から慶応大学への異動は物理的な距離があまりにも大きいためにある程度の停滞は覚悟の上だった。幸か不幸か諸般の事情で一度にラボの全部を移すことができず、九大では客員教授として身分を残させていただき引き続き生医研ラボでの研究も継続することとなった。九大と慶應とふたつラボがあるために異動の困難はかなり緩和された。九大から出すサンプルは慶應で受け取ればそのまま冷蔵庫に入れられる。必要なものを必要に応じて送付すればよいので一気にすべてを完璧に遂行しなければならないというストレスは少ない。しかし当然輸送費や2つのラボの維持費は相当の額である。やはり慶應のラボの改修工事も大規模なものが必要だった。慶應大学からは身に余るご支援をいただいたが、大きな声では言えないがやっぱり全然足りない。よってこれにも内藤財団などからの助成金に随分助けられたが、それでも足りない。結局再び多額の借金をかかえることになる。また福岡と新宿では住居費も倍は違う。ついてきてくれる学生さんたちの負担も大きい。しかたない、東京へは学振特別研究員としてある程度経済的な支援を得た者のみ連れて行き、あと1年で卒業する(はずの)学生や学振に落ちた連中は九大に残すことにした。果たして1年以内にラボをひとつにできるだろうか?不安は尽きない。しかし何事もマイナスに考えていては前に進まない。少しでもよい面に目を向けて前進あるのみ。久留米から九大に異動したときは細胞レベルの仕事から遺伝子改変マウスを活用することで研究の大きな転換を計った。今回も、これまでにない新たなチャレンジをするまたとないチャンスだ。異動には様々な負担が伴うが、きっと新しい出会いと新しい研究の展開が待っているに違いない。
写真はこの春九州大学の居残り組(+鈴木研の若い人たち)と恒例の花見にて(H20、4/5)